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発掘!真田幸村の激闘 「歴史秘話ヒストリア」〜最新研究から探る 大坂の陣〜

 発掘!真田幸村の激闘歴史秘話ヒストリア

〜最新研究から探る 大坂の陣

 

 

 episode1

難攻不落!謎の巨大要塞 出現

 

慶長19(1614)年10月、大阪城は風雲急を告げていた。

豊臣秀吉の死後、城の主となっていたのは息子の豊臣秀頼とその母・淀殿
かつての威光は失われたものの豊臣家は依然として最大の大名の一つだった。

江戸幕府が開かれて11年目のこの年、ついに徳川家康が豊臣家をつぶすべく動き始めた。

豊臣家は、これを迎え撃つため、浪人や武将らに大阪へ参集するよう呼びかけた。
そして真田幸村を含め大阪に集まった豊臣方は10万、攻め寄せる徳川方はその倍の20万。

しかし、大阪城には亡き秀吉が残した鉄壁の防衛ライン「惣構堀」と呼ばれる備えがあった。

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大坂城の鉄壁の防衛ライン「惣構堀」の名残が見つかり、その一部が今も大阪に残っている。
大阪歴史博物館の積山洋さんは、発掘調査を通して正確な位置を推定してきました。

これらは空堀で城の南側に2kmに渡って建設されていた。さらに大阪城の三方をめぐる自然の河川や水堀とともに防衛ラインを構成し、一つの町を丸ごと囲むようにめぐらされ、敵の侵入を阻止していた。

奈良大学千田嘉博教授によれば「惣構堀」の規模は世界的にも例を見ないという。近年、さらなる大阪城の関門となる堀が、大阪府警本部庁舎の改築に伴って発掘された。


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このように秀吉が残した大阪城は鉄壁の防衛ラインであったが、城の南東部だけが天然の谷を防御に利用していて唯一の弱点と思われていた。

その弱点を真田幸村が大工事により克服。
幸村は城の南東部にあった台地を利用して巨大な戦闘機地を築いた。

 

難攻不落の「真田丸」出現


大阪冬の陣真田幸村が建造した真田丸を再現。標高と絵図から推測できる真田丸は周囲1200メートルと桁外れの規模の要塞だったと考えられる。 

 

 

 


大軍を最前線で迎え撃つための防御拠点に相応しい造りであり、攻撃の拠点でもあった。奈良大学千田嘉博教授は「徳川軍から守るだけでなく引きつけ反撃する施設だった」と話した。 

 

episode 2

大坂城を攻略せよ “真田の抜け穴”の秘密 


大阪城の南側には真田の抜け穴と言われる不思議な穴が数多く残されている。大阪・天王寺区産湯稲荷神社や一心寺にある井戸は、真田幸村大阪城からの逃げ道として掘ったと伝えられていてる。

幸村の銅像がある三光神社にも幸村が秀頼を脱出させたという抜け穴が存在する。しかしこれは最新の研究によると徳川側が掘ったものだと考えられている。

慶長19年11月18日、大阪冬の陣が開戦。徳川方は大阪城を包囲。
攻撃を城の南東部に集中させるも、そこには巨大要塞「真田丸」が待ち受けており、記録によればこの日だけで1万人以上の戦死者が出たという。幸村の思惑通り「真田丸」は大きな成果をあげた。 

 

  


堺鉄砲研究会の澤田平さんは「真田丸」の勝利には特殊な武器の存在があったと考えている。

それは大阪・茨木市の指定文化財となっている大型銃「大狭間筒」で、城を守る専守防衛の役目があると話した。
豊臣方の守りの硬さを見て家康は力攻め以外の作戦に切り替えた。
大阪城を攻めあぐねてる徳川方の苦闘の様子が「大阪冬の陣図屏風」に描かれている。竹束を全面に置きその背後に築山を築きその後ろを「仕寄り道」と名付けられた半地下通路が「真田丸」や「惣構堀」に近づく塹壕となった。

市内各地に残る真田の抜け穴、「これらは攻めあぐねる中で徳川方がひねり出した作戦の遺跡」と奈良大学千田嘉博教授が話した。 


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堅固な真田丸と惣構掘の備えにより大阪の陣は予想外の長期戦にもつれ込む。
真冬の大阪で徳川方20万人が野営せざるを得なくなった。

大阪城からは徳川方の窮乏を物語る大量の牛や馬の骨が見つかっている。
大阪府文化財センターの江浦洋さんは「運搬用の牛や馬の骨で食料に困っていた状況がよくわかる」と話した。

ところが、慶長19年12月16日、徳川方の大砲が淀殿のいた館に命中。
これに動揺した淀殿は武将たちの反対も顧みず和睦に応じてしまう。12月20日大阪冬の陣終結した。

家康は大阪城の堀を埋めることを和睦の条件とし、本丸を除くすべての堀が1ヶ月で埋めつくされた。

このときに「真田丸」も破壊された。

 

episode 3

発見!幸村の秘密兵器 謎の小型銃

 


慶長20年5月6日、大阪夏の陣が開戦。豊臣方は堀がないため籠城できず野戦を強いられた。「大狭間筒」などの武器は野戦では役に立たず。5月7日、真田幸村は高台を利用し徳川方を迎え撃つ作戦で茶臼山に布陣。

幸村が秘密兵器「馬上宿許筒(しゅくしゃづつ)」を用意していたことが「南紀徳川史」という資料に記されている。「宿舎銃」は普通の火縄銃の1/3の時間で発射できる“早込めの銃”だったという。

5月7日、徳川方が攻撃開始。幸村は敵をぎりぎりまで陣地に引きつけ一斉に射撃して迎え撃つ作戦だったが、焦った豊臣方の一部の部隊が攻撃を開始し、乱戦となり射撃のチャンスは奪われた。

しかし、幸村は諦めず「宿舎銃」を手に本陣目指して突撃をかけたという。
このときの幸村の行動は「家康のいる場所目がけて真一文字に突き進んだ」と記されている。

幸村の攻撃にさらされた家康は2度まで切腹を覚悟したという。
そして、幸村が2発目を撃とうとした時、「真田が宿舎筒を手から取り落としたとのことである」とも記されている。

真田幸村は、傷つき、疲れ果て、大阪・天王寺区安居神社にある松の木にもたれかかっていたところを、徳川方の兵が囲んだ。

慶長20年5月7日、「我が首を取って手柄にされよ」という言葉を残し、真田幸村討ち死に(享年49)。その日大阪城は落城し大阪夏の陣終結した。

真田幸村の「宿舎銃」が他家に伝わることを恐れた徳川家は、封印し明治を迎えるまで表に出すことはなかった。

圧倒的な徳川方を相手に知力を振り絞って奮闘した真田幸村。その伝説は大阪で今も語り継がれている。

大阪・天王寺区安居神社では毎年幸村の慰霊祭が行われる。平野区志紀長吉神社には勝利を祈って奉納した真田の軍旗が御神宝として残されている。幸村ゆかりのこの神社では今、「勝守り」という祭事が人気を博している。

 

 

 

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